映画「オペラ座の怪人25周年記念公演 in ロンドン」Ⅱ

クリスティーヌに唇を重ねられたとき、涙の塩辛い味がした。しかし、その涙がクリスティーヌのものか私のものかは分からなかった。・・・・ 私はもう何もできなかった。もちろん・・・・・・キスがすべてを終わらせたのだ。

スーザン・ケイ『ファントム』より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

映画自体に休憩はないが、ロイヤル・アルバート・ホールの休憩時間の映像が流れ、間奏曲が奏でられている間がちょっとした息抜きとなる。

 

 
・・・・
暗がりの中、そろ~りそろ~り両側から登場し、背中でごっつんこ。
悲鳴を上げる支配人コンビ。相手がわかった途端、調子はコミカルに。
後半は”Masquerade”から。
こってりと仮装を凝らし、秘めやかな足取りで、じわり、じわりと集う人々・・・・手回しオルガンの音に合わせ、モンキーの仮装を施した3人がシンバルを動かす――さあ、マスカレードへようこそ!

表舞台は白、黒、金を基調に、めくるめく場面転換続く映画ならではのマスカレードに対し、舞台のそれはカーニバル色強い極彩色の世界。その違いもまた楽しく。婚約のことは秘密に…と言うクリスティーヌに、なぜ?と怪訝な様子のラウル。一瞬のわだかまりと戸惑いが二人を引き離す合図だったかのように、クリスティーヌは乱舞の輪の中に巻き込まれていく。輪から出るに出られず、くるりくるりと皆と舞い続ける。
・・・・ラウル、ラウル・・・・クリスティーヌ!・・・・
ようやく彼女の手をラウルが捉える。

突然、全てが静まった。
近づいて来る‘赤い〈死〉’――ファントムだ。
彼は遂に堂々と姿を現し、「ドン・ファンの勝利」のスコアを支配人に投げつける。しかしクリスティーヌから婚約指輪を奪うことはせず、怒り、炎と共に姿を消す。

しばし映画にはない、或いは映画とは順序が違う場面が続く。
まず支配人のオフィスにて――耳の悪い誰某はクビにしろ、ピアンジは痩せろ、とある意味大変的確な指図をしてくるファントムの手紙に、げんなりする支配人。喚くカルロッタ。楽譜を放るピアンジ。それを踏むフィルマン。それを拾うアンドレ。「プリマ・ドンナ」的展開が始まるが、恐怖したクリスティーヌがそれを打ち切り、映画では「ドン・ファン」上演前、チャペルで歌った歌を彼女はここで歌う。マダム・ジリーは制止するが・・・・ラウルはファントムを捕える計画を練った。

「ドン・ファン」稽古中。
コーラスはひどく、ピアンジは音程が取れず、カルロッタは作曲者を小馬鹿にし、マダム・ジリーの言葉に凍りつく。このぐだぐだな様子を密かに垣間見ていただろうファントムが業を煮やしたか――ひとりでに演奏し始めるピアノ・・・・恐怖心からかファントムの力によるものか、急にまとまりだすコーラス――

怯え、しかし葛藤するクリスティーヌは一人父の墓地へ向かう。
“Wishing You Were Somehow Here Again”の歌詞にあるように、ファントムとは彼女にとって父親であり、友であり、天使でもある・・・・あり続ける存在なのだ。

・・・・・ここで聞かせるシエラのソロの素晴らしさといったら!!
身に流れるありったけの音楽を集め、振り絞って歌い切ったかのよう・・・・!

ファントムは父親の墓の上にいて、クリスティーヌの声を聞いていた。私はここでクリスティーヌを見つめるファントムの眼差しが大好きだ。ラミン・ファントムならではの表情がそんな風に考えさせるのか――
この時の彼は師でも‘怪人’でもなかった。
ただ愛していた。
人として、クリスティーヌのことを。
が、彼女を得る手段として、彼はファントムとして誇り高く振舞う方法しか知らない。ここへおいで・・・・Wandering Child…. と歌いかける声が、強靭なのに切ない。

すぐにその声に応えるクリスティーヌ。
いつの間に現れたか彼女の目を覚まそうとし、みなぎる声で割り入ってくるラウル。ラウルの声を遮るようますます声量を増していくラミン・ファントム。これ以上ファントムの声を聞かせてなるものかと声量を増すヘイドリー・ラウル。二人の男のもの凄い声量が被さって、シエラの歌声がほとんど聞こえない位だ。

剣ならぬ歌声を刃とし交えた激闘の末、ファントムの歌声は破られる。トランス状態を抜け、ラウルに駆け寄ったクリスティーヌが彼の唇に口づける。ファントムは‘怪人’に戻り、二人の行く手行く手を炎で阻もうとするが――

「ドン・ファン」開演直前。
緊張からかスキットルを取り出し、くぴっとやるフィルマンをたしなめるアンドレ。厳重な警備が敷かれ、全ての扉が閉ざされ、奴の逃げ道は塞がれた・・・・瞬間、四方八方から響いてくるファントムの声。挑発的な彼の声に思わず発砲した警官を怒鳴りつけるラウル。

ファントムのオペラの幕が開く。

私は“The Point of No Return”が一番好きな曲かもしれない。
特に映画は‘この歌’を聞く為にここまで観てきたと言ってもいいくらいに。歌の上手い下手でなく、このドン・ファンという役柄とGerryの声質の一致が、あれほどまでに胸締め付ける場面を作り上げたように思えるから。

舞台のドン・ファンはダース・シディアスばりの黒外套で顔を完全に隠しているが。映画のドン・ファンの格好は、Passaino….. と登場した途端、訝しがられるもの。silent… と歌いながらクリスティーヌを見、口に指を一本当てる仕草(素敵♪)は、そのままクリスティーヌへの‘私のことは黙っているよう…’という指示にもなる。切なく、エロティシズムという点で優れ、仕上がり美しいのは映画の方と思う。だがクリスティーヌの顔、あだっぽい目元のアミンタの顔、と場面場面で切り替え、演じ分けているシエラのクリスティーヌもまた魅力的であるなと。

クリスティーヌが歌い出すと同時に鳴るカスタネットの音が、ただならぬ運命の始動の音と聞こえる・・・・フードの下の正体に気づき、弾かれたように逃げ出すクリスティーヌ。怒りか何か耐え切れなくなったような唸りを上げ、彼女の手首を捕え、引っぱり出すファントム。場が切迫する中、歌声の交じりは最高潮に達し――突如、クリスティーヌはフードを下げ、ファントムの姿をさらす。歌が消える。‘return….’と小声で囁き返すファントム。

クリスティーヌに背を向け、”All I Ask of You”を歌い始めるファントム。孤独から救ってあげよう…だったラウルの歌詞は、孤独から救って欲しい…に。左手の小指にはめていた指輪を外し、それをクリスティーヌの左手の薬指へ(映画でもこうすれば良かったのに・・・)。もう、もう、これ以上は!・・・・とファントムを止めたかったか、彼女はファントムのマスクを剥ぎ取る――

    No!!!

悲痛な叫び声が上がる。
炎で追っ手を塞ぎ、彼はクリスティーヌを連れ去った。

“The Phantom of the Opera”の時に渡った橋を再びゆく。歌に怒りを吐き、クリスティーヌを引きずって行くラミン・ファントムの気迫が凄い。直ちにマダム・ジリーはラウルをファントムの棲家へ向かわせる。
 
再び地下へ――
ファントムにウェディングドレスに着替えさせられたクリスティーヌ。ラウルに気を取られ、クリスティーヌを押さえつける彼の手に我知らず力がこもる。手を離した途端崩れ落ちるクリスティーヌを見て、初めて自分がクリスティーヌの首を絞めていたことに気づき、ハッと自分の手を見るラミン・ファントム――

パンジャブの投げ輪がラウルの首にかかる。

私を愛するか!彼を地獄へ送るか!

ファントムの声が狂気を帯び、クリスティーヌに迫る。

自分の内でのここからの盛り上がり方は尋常ではない。場と音楽と歌とがぴたりと一致し、激しく心揺さぶられ、呼吸と瞬きを忘れる。

‘make your choice.’の前、昔は盲目的に心捧げた・・・と涙するクリスティーヌをラミン・ファントムが振り返り、息を整えながらじっと見つめる場面が気になった。振り返る前、微かな声で‘blindly’と呟いたファントム。もし彼に一瞬、自責の念や後悔が浮かぶとしたらこの時だ。もはや後へは引けないが。

クリスティーヌがそうした理由が何よりラウルを救うためであったなら‘you are not alone!’の言葉はなかっただろう。孤独から救ってほしい、そう歌ったファントムにクリスティーヌの心が応えた。

クリスティーヌはファントムを孤独から救い出したのだ――
ただ一つのキスで。

唇を重ねられている間、ラミン・ファントムは驚愕し、ショックを受けたように目を開けたままだった。でもクリスティーヌが離れた時、瞳からは憎悪も怒りも失せ、代わりにとめどなく流れる涙があった。もう彼は天使でも怪人でもなかった。

ファントムはラウルの首のロープを蝋燭の火で焼き切り、二人に出て行くよう命ずる。映画のぼろぼろのラウルに対し、戦意衰えぬヘイドリー・ラウル。打ちひしがれたようになったファントムになおも挑もうとし、クリスティーヌに懸命に留められる。

一人になると階段に突っ伏し、泣き崩れるファントム(凄い演技力!)これほど絶望的に、徹底的に、打ち砕かれるような悲しみは見たことがない。これが舞台であり、彼がこの場で流している本物の涙であることが余計胸を突く。

不意にオルゴールが動き出し、”Masquerade”が流れ出す。
儚げな声でファントムは歌い、モンキーのシンバルに合わせ自分の手を動かす。片手でマスクをかけるかのようにモンキーの顔を覆い――背後にそっと現れたクリスティーヌに気づくファントム。彼女の表情は柔らかだ。惨めな様子を少しはましに見せようとするかのように立ち上がり・・・・と、彼女はファントムから貰った指輪を差し出す(映画では解釈に悩む場面だが今回は納得)

‘Christine,… I Love You’

受け取るファントムの手を両手でいだき、泣きながら口づけるクリスティーヌ。ああ!身を引き裂かれそうなこの想い・・・これは・・・なぜこんなにも辛いの?うなだれ、階段を登りながらクリスティーヌは”All I Ask of You”を歌い始める。それに呼応するようラウルも歌い、彼女に手を伸べるが、これはどう聞いてもラウルへ向けて歌ったものではない(映画ではそう思ったことはなかったが)。

‘一つの愛、一つの人生を分かち合うと言って そうしたらあなたについていくわ…’

これはクリスティーヌの魂からファントムの魂への無意識の求愛だったのかもしれない。

‘…. I love you…. I love you….’
しゃくり上げているのかとまごうほどの、ごく微かな声でファントムがささやく。

すべて、終わった。
自ら開けた舞台の幕は自らの手で下ろそう。

最後にクリスティーヌのベールを掲げ、高々と歌い上げるラミンの声を耳に残し――

ファントムは消えた。